賞'(Award)に思う

今迄”賞”に縁の無い者がこのような発言をして良いか、後ろめたさを感じるが、最近何事にも”賞”が絡んでくるのでつい自分の考え方を述べたくなった。

スポーツや碁・将棋等の勝負事は除いて、国際的な賞'Award)としてノーベル賞アカデミー賞、等がマスコミを騒がしており、一方、国内の賞として文化勲章芥川賞等の文学賞そして国民栄誉賞などが関心を集めている。推定するに賞と名のつく表彰は種々の民間団体の賞を含めると恐らく100ではきかないくらいあるだろう。これらの賞(Award)は厳格かつ公平な審査基準で審査されていると聴くが、絶対的な基準を定めることは難しく、評価・審査する側(人)の主観性を排除することは困難である。

今、取沙汰されている賞に国民栄誉賞がある。王貞治氏を第一号として、先般の羽生善治氏、井出裕太氏まで25人1団体が表彰されている。この賞の目的を内閣府のホームページでは「この表彰は、広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えることを目的とする。」と謳っている。我々の多くが日本人として誇りに思える人・団体が選ばれており、個人的にも良い制度だと思っている。

しかし、ここにきて急にこの賞が”軽く”なってきた感じを持つのは私だけであろうか?先の冬季オリンピック羽生結弦氏が男子フィギュアスケートで連覇すると、直ちに政府が国民栄誉賞の検討を開始したと発表した。私も羽生氏の素晴らしい業績や我々が受けた感動に異論を持つものでは無い。心から素晴らしいと思う。しかし、国民栄誉賞の授与を検討と聞くとそこに”何かが違う”という違和感を持ち、直ぐに”へぇー、国民栄誉賞のってこんなに軽いものなのか”という気持ちを抱いた。そこで、過去の受賞者のリストを調べると、私的には違和感のある受賞者はいない。

賞(Award)という仕組みは、それが創設されるときは十分な”志”を関係者が感じ、その賞に相応しい人を真剣に選定し表彰し、誰もが心から納得する。しかし、仕組みや制度というのは表彰する側がよほど当初の”志”を守る気概を持たねば経年的に制度疲労することを私は経験している。或る、業界団体ではその業界の発展に大いに貢献した技術者を顕彰しょうとして”フェロー”なる制度を考案した。読者は知っていると思うが”フェロー”という称号は技術者としては最高の名誉である。(島津製作所田中耕一氏もノーベル学化学賞を受賞してからフェローの称号を社内で特別に創設されたと聞く。)それほどに”フェロー”は名誉ある称号であるが、その業界団体では現在までに500名以上がフェローになっている。正に制度疲労である。

国民栄誉賞を起案するのは政府(内閣府)である。”時の人”を表彰することで内閣が国民に媚びを売るという下心が見えていないであろうか。そこには既に制度疲労が起きていないであろうか。オリンピックにおける連覇を言うのなら北島康介氏も該当し、感動を与えたのであれば真田真央氏も、葛西紀明氏など列挙に暇がない。パラリンピックの村岡桃佳氏など一人で5個のメダルを獲得している。

政府は今回のオリンピック・パラリンピックの結果を踏まえて、”下心”の無いきちんとした表彰を見せて欲しい。ただ、既に羽生結弦氏を選んでしまった以上、制度疲労というクラックは国民栄誉賞という台車に入ってしまったことを認識して欲しい。某業界団体のように石を投げれば”フェロー”に当たるとならないように。